2013年5月5日日曜日

【モータウンな話】ノーマン・ホイットフィールド②


ノーマン・ホイットフィールドという人物をもう少し知りたいと思います。


彼が育ったのは、ニューヨークのハーレム。


一家は、叔母の葬儀があったカリフォルニアからニューヨークへ帰る途中、父親が運転する車がデトロイトで故障し、そのまま居ついたという話あせる


ノーマンは、粘り強くモータウンの門をたたき、ゴーディに採用されたらしく、


最初に就いた仕事は品質管理部の責任者として、レコードの試聴が主だった。


彼はモータウンでプローデューサーになる夢をみながら、チャンスを待っていて、


ヴェルヴェレッツの担当をするなど、徐々にプローデュースを行いました。


存在感を周りに示したのは、テンプテイションズ(テンプス)の担当になった辺りからになります。


テンプスの初期の成功には、スモーキー・ロビンソンのプローデュースによるものでしたが、スモーキーが書いた「ゲット・レディ」は、R&Bチャートで1位になったにも関わらず、ポップ・チャートでは29位までしか上がらない状況でした。


“My Girl”のヒットなどでテンプスはモータウンの看板グループであったため、社長のゴーディは、ポップス・ファン(白人)の人気が得られなかったとが不満だったようですね。


そして、次作品の評価会議の多数決により、プローデュースの権利がスモーキーからノーマンに移ったということです。('64に1曲手掛けていたが)


最初のプローデュース曲(権利獲得)
“Ant Too Proud to Bag”['66/POP>13位R&B>1位][ローリング・ストーンズ もカヴァー]から、コンスタントにヒット曲をチャートに送り込みました。さらに個性を発揮したのは、テンプスのヴォーカルがデニス・エドワーズに代わった'68年の“Cloud Nine”からになります。

'72年の“Papa Was A Rolling Stone”もイイですよね♪


ノーマンはこの頃、モータウンで最も頼りになる男となる。


そのほかには、グラディス・ナイト&ザ・ピップスの曲も殆ど手掛けています♪


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