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2013年7月13日土曜日

【モータウンな話】Florence Ballard ②



👤
[コール]
僕は、映画ドリーム・ガールズを見てフローレンス・バラードさんのエピソードを知ったんだけど…ベリー・ゴーディーjrさんやスモーキー・ロビンソンさんは、この映画の「描写は100%間違っている」と批判されてたんでしょ?


👤
[レスポンス]
確か制作側の謝罪をゴーディーが受け入れ和解した筈だ!
でも当事者の一人メリー・ウィルソンはミュージカルを見た時点で、「あれが本当のスプリームスよ!」とも言ってたけどな(^^;


👤
[コール]
やっぱり真実に近いんでしょうか…なんかショックですね…


👤
[レスポンス]
映画化以前のミュージカルが'81年からだろ!?ってことは あの事件
(ダイアナがメリーをステージ上で突き飛ばしたモータウン・スペシャル)
の前なら…自然と出た言葉かもよ!


👤
[コール]
そっか…もしその話も事実で一時的な感情で言ってないんだとしたら、尚更ショックです…ダイアナ・ロスさんへの見かたが変わります…


👤
[グルーヴ]
コールさんの気持ちもわかりますが、ダイアナの性格がどうであれ、ダイアナだからゴーディーの要求にも応え、スプリームスを引っ張りスーパースターとしてのプレッシャーにも耐えたとも言えます


ゴーディーの夢を実現したダイアナは歌唱も素敵ですし、何よりも精神力の強さは凄いですよね!


と言いながら…そう言う私もゴーディーのフェアじゃないやり方や、ダイアナばかり優遇されることに不満を募らせた人がたくさんいたのも事実だと思っています


なかでもフローレンス・バラードの悲劇は映画以上のものでした


ダイアナ・ロスがグループのリードヴォーカルを勝ち取った経緯は恋仲の噂があったブライアン・ホランドの話もある


スプリームスの初の全米1位“Where Did Our Love Go”のリードヴォーカルは当初フローでもダイアナでもなくメリー・ウィルソンに決まりかけていて


エディ・ホランドはメリーの声を薦めたが、H=D=Hの間の話し合いで2対1でダイアナになったとのこと


この“Where Did Our Love Go”の大ヒットでモータウンとスプリームスの間で再契約がなされ


スプリームスがモータウンのなかで重要なアーティストになったことを意味する


その時の契約なのかにフローが名付けた「スプリームス」という名は、フローがグループから脱退したらグループ名を使用する権利はなくなるものでした


フローがグループから孤立していったのには彼女自身にも少し問題があるにせよ、同情する部分もある


しかしフローレンス・バラードの最大の悲劇はモータウンを去ってからの話かもしれません


1967年にフローレンス・バラードは会社の方針や社内のトラブルからある条件に同意させられモータウンを去りました


それは、数年間は少額の報酬を受けれるが以後の印税は受け取れず、元スプリームスのメンバーと名乗ることも禁じるというもの


フローは弁護士を雇い一定の合意に達したあと、ABCレコードと契約し再スタートするがモータウンの巧みな妨害もあったようです


さらに雇った弁護士がフローのお金を使い込み彼女は一文無しになった


最終的には5万ドルを奪い返すのだが、争いごとばかり続いたようです・・・







The Supremes @YouTube

2013年7月11日木曜日

【モータウンな話】Florence Ballard


“少なくとも名前(THE SPUREMES)は私の作品”Florence Ballard


スプリームスの前進プライメッツ結成時の彼女たちを知る人々の話はまちまちですが


ただ、ひとつ言えることは
始まりはフローレンス・バラードだということ


フローが中心となり、プライムズ(後のテンプス)とともにデトロイト周辺で歌うようになり


フローはグループの活動に専念するために他のあらゆるものを犠牲にしグループの将来を賭けていた


因みに モータウンに入る前にはルパインという小さなレーベルでレコードも出しています

PRIMETTES@YouTube






彼女たちがモータウンと契約したのは1961年1月から


まったく評判にならず
その後メンバーの1人バーバラ・マーティンは結婚で脱退


1962年に発表されたフーズ・ラヴィン・ユー(スモーキー作)も評判にならなかったがB面のバタード・ポップコーン(ゴーディー、エイルズ作)がラジオで話題となりました


そこで、バーニー・エイルズはキャンペーンを展開し売り出そうとするがゴーディーがストップをかけたという・・・

バタード・ポップコーンはフローがリードヴォーカルでしたが

ゴーディーはこの頃からダイアナをリードに据えスプリームスを売り出そうと考えており

フロー=スプリームスのイメージ付けされるのを嫌ったようです

フローで売れては困るってことでしょうか・・・
ただ、このエピソードは後付けの感じもあります(^^;


何れにせよバタード・ポップコーンは、スプリームスの歴史のなかでも欠かせない曲となりました♪





2013年7月7日日曜日

【モータウンな話】You are everything - DIANA & MARVIG

👤
[コール]
モータウンの歴史のなかでタミー・テレルさんの話は本当に残念です・・・僕はタミーさんならモータウンのトップ・スターになれたと思うんだ・・・


👤
[レスポンス]
それはどうかな…ベリー・ゴーディーの女王ダイアナ・ロスにかける情熱は半端なかったぞ!!意地さえ感じる!今さらだな…


👤
[グルーヴ]
私もタミーが亡くなったのは残念でなりません。おっしゃるとおりゴーディーはソロ・シンガーとしてもダイアナ人気を持続させ、映画やテレビ、ミュージカルなどの新しい世界で成功する大きな夢を秘めていました


当時はデトロイトの人々にそっぽを向かれていたが、モータウンのロスアンジェルス移転とハリウッド進出を実現するためにダイアナ人気を何がなんでも保たなければならなかったと思います


1970年ソロ・ダイアナのファースト・シングル“リーチ・アウト・アンド・タッチ”は4月にリリースし20位を記録


※(3月にタミー・テレルは夭折し…マーヴィン・ゲイは途方に暮れて毎日を過ごしていた…)


大ヒット間違いなしと思われる“エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ”(カヴァー)をセカンド・シングルとして7月にリリースさせています・・・


翌年、ダイアナ・ロスは結婚し冠番組を持ち主演映画の制作開始など順調に思えたがレコードの売れ行きは納得いくものではなかったのです


一方、'71年のマーヴィンは「ホワッツ・ゴーイン・オン」で見事に復活し、マーヴィン自身お気に入り「トラブル・マン」や、傑作アルバム「レッツ・ゲット・イット・オン」も成功した


1972年 ダイアナ・ロス主演映画『ビリーホリデー物語』はアカデミー賞にノミネートされるなど幸先よいスタートとなり(その後の映画は成功したとは言えない)


'73の“タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング”も久しぶりに全米1位を獲得するも


ソロ・シンガー ダイアナ・ロスの歌は(特にカヴァー曲)どれも良い出来だったが、ゴーディーを満足させるヒットとはならなかった

ゴーディーは更にダイアナ人気を取り戻すべくマーヴィンと組み合わせ、アルバムDiana & Marvin をリリース、この二人にしてPOP:26位という不本意な結果となった…


収録された“マイ・ミステイク”や“ユーアー・エブリシング”は素晴らしい曲であったが、制作中はお互いに歩み寄らず、このジャケット写真のようにダイアナとマーヴィンの心は通じあえなかったという…


後にマーヴィンは「彼女のことをもっと理解してあげるべきだった」とも答えている


2013年7月6日土曜日

【モータウンな話】What's Going On



マーヴィン・ゲイにとってタミー・テレルとの出会いと別れは人生の転機となり、その後の音楽に影響をおよぼすことになる。


タミーは闘病しながらの活動だったが、1968年アシュフォード&シンプソンがプロデュースした傑作“You're All Need to Get By”がヒットし、


ソロ、マーヴィン・ゲイとしても“I Heard It Through the Grapevine”が初のPOP CHART 1位を獲得するなど、マーヴィンの音楽活動はデュエット、ソロ共に順調だった。


一方のタミーは度重なる手術を受けながらも、気力をふりしぼりレコーディングを試みていたが…1970年3月16日、フィラデルフィアの大学病院で息をひきとったのです。


人一倍感受性の強いマーヴィンは、タミーの病名を聞かされた頃から気づいてあげられなかったと自分を責め、死のショックから、途方に暮れて毎日を過ごすようになった。


この頃のモータウンはジャクソン・ファイブの活躍もあったが、アーティストの移籍やH-D-Hとの訴訟問題など荒れていた時期でした。


そして、1970年はダイアナ・ロスがスプリームスを脱退し、ジーン・テレル”が加入。(兄はアーニー・テレル)


モータウンはダイアナ・ロスのソロデビュー大キャンペーンを展開中だった。


好調なプロデューサーチーム、アシュフォード&シンプソンがダイアナ・ロス初のソロ・アルバムを手掛けることは自然な流れではあるが、


信じられないことにモータウンとゴーディーはタミーが亡くなったこの年にダイアナ・ヴァージョン「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ」をリリースさせている・・・


その頃もマーヴィンはタミー・テレルの病気の件からずっと色んな矛盾に悩み、暫く方向を探し求めていたそうです…


そして思いつたのが、プロフットボール選手を目指すこと…直ぐに叶わないとわかると次にボクシングに夢中になります…


徐々にではあるが前向きに行動を起こすようになり、音楽制作も始める。


それはモータウンでは許されなかった自分が演りたい音楽でした。そこに友人のクリーヴランドとベンソンの二人が完成させた“ホワッツ・ゴーイン・オン”を薦めてきた。


乗り気ではないマーヴィンを説得しづつけていたらしい・・・




2013年7月5日金曜日

【モータウンな話】Tammy Montgomery - I Cried - Early Tammi Terrell Ballad

Tammie ②




UNSUNG@YouTube







【モータウンな話】Tammie

タミー・テレル(本名Tomasina Winifred Montgomery )1945.4.29(フィラデルフィア)-1970.3.16


あるタレント・ショーの出場をきっかけに、タミー・モンゴメリーとしてウォンド・レコードからデビューするがヒットせず引退したあとペンシルヴェニア大学に入学。
心理学を学んだ後業界に復帰し、ジェイムズ・ブラウンのツアーに参加。恋仲になったブラウンから暴力をうけ、逃げるようにブラウンのもとを離れたという。

チェッカーでも数曲録音し、1965年にモータウンと契約。モータウンではソロ数曲発表した後マーヴィンとコンビを組むことになった。

アメリカで放送されたタミーのドキュメンタリーのなかでは、幼少期から頭痛に悩まされていたらしく11歳の時に悲惨な暴行をうけたとなっている…
モータウンでの彼女は輝いていました。愛嬌のよさと容姿のおかげでモータウンのなかでも人気があり、ダイアンでさえ彼女の魅力にはかなわない。

マーヴィンにとっても最高のパートナーとなり、彼女の表現力も素晴らしく本当の恋人同士のようだったと。マーヴィンは歌っている時にはタミーにプラトニックに似た感情で愛していたに違いないでしょう。

タミーの実際の恋愛は、デヴィッド・ラフィンに夢中だったようです。(ドキュメンタリー番組のなかではラフィンからも暴力をうけていたらしい…)

今まさに花開こうとするシンガーと問題児ラフィンとは不釣り合いで、モータウンの多くの人間は「ラフィンは嫌いだがタミーは好きだ」「彼女ならもっといい相手がいただろうに」という。そんな忠告も効き目もなく、「タミーはラフィンをとにかく愛していたんだ」と。

1967年4月に発表された「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ」の評判でタミーは明るい未来が見えた筈だった。マーヴィンにも・・・

しかし、その数ヵ月後のステージで“ユア・プレシャス・ラヴ”を歌っている時にタミーは倒れ闘病生活に入ります。

医療費は全額ゴーディーが負担したらしいが彼女は脳腫瘍手術を受けながらもスタジオ録音もこなしていた。彼女もポジティブにそれを望んでしたのですが…後にマーヴィンはこのモータウンのやり方にも不信感があったという。


1970年3月16日、神は天使が苦しんでいるのを見かねて休息を与えた。





2013年7月4日木曜日

【モータウンな話】才能ある人々



ベリー・ゴーディーjr. に信頼されモータウンの “初期を支えた人物を挙げるならば、


会社設立の提案をし、音楽プロデューサーとしての才能が発揮されたスモーキー・ロビンソンと、配給担当で白人のバーニー・エイルズ。


バーニー・エイルズはレコード業界での経験が買われ、白人優先主義の業界とのパイプ役に必要だった。


そしてもう一人、ウィリアム・ミッキー・スティーヴンソンは、優秀なプレイヤー(後のファンク・ブラザーズ)をモータウンと契約させ、


モータウンのデレクターとしてミュージシャン、プロデューサーたちを監督する重要な役目が与えられた。


スモーキーが手掛けた“ショップ・アラウンド”の成功は、モータウンの発展において重要な曲となったようです。




最も“貢献”したアーティストはマーヴィン・ゲイではないでしょうか・・・


マーヴィンはピアニスト兼ドラマーから始まり、さまざまなプロデューサーと組まされ、次々と女性歌手との相手役もさせられた。


W・スティーヴンソンやその部下クラレンス・ポールのプロデュースではメリー・ウェルズの相手をさせ、


スティーヴンソンの妻キム・ウェストンとの組み合わせではスティーヴンソンが自分の地位を利用していると社内の反感があったという。


それでもマーヴィンは常にチーム・プレイヤーとして全力を尽くしていた。


次のアルバムは新チーム、マーヴィンの師匠ハーヴェイ・フークアとジョニー・ブリストルがプロデュースをし、


アシュフォード&シンプソン作曲“エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ”がリリースされた。


相手役には新人のタミー・テレルが選ばれた!


彼女は愛嬌がありセクシーでモータウン内でも人気のシンガーとなり、


他の女性シンガーも彼女の魅力には誰もかなわなかったらしい。


1967年4月に発表されたエイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフはNo.1にこそならなかったが、名曲の仲間入りとなる。


しかしタミーは、その僅か数ヵ月後のステージ上でマーヴィンの腕の中に倒れ込んだのです・・・




V.Simpson & M.Stoller @YouTube

2013年6月22日土曜日

【モータウンな話】DIANA ROSS AND THE SUPREMES





ダイアナ・ロス&ザ・スプリームスの活動は2年程です。


1967年にはフローレンス・バラードがザ・スプリームスを脱退し
代わりにパティ・ラベル&ザ・ブルーベルズからシンディ・バードソングが参加してきました。


そして、グループ名はダイアナ・ロス&ザ・スプリームスとなりアルバムREFLECTIONを発表します。(シングルス“リフレクション”2位)


しかし、このアルバムを最後にグループの担当プロデューサー・チームH=D=Hがモータンを去ります。


H=D=Hというモータウンの柱を失ったベリー・ゴーディjr.
次のアルバムには自らプロデュースに参加し
賭けとなるグループ初の社会的メッセージを込めたラブ・チャイルドを発表した。


この曲は見事に全米1位を獲得しましました。


新たなグループでダイアナが脱退するまでの全米ナンバーワンに輝いたのは、


ラブ・チャイルドとテンプスとの共演“君に愛されたい”
そして脱退発表後の“またいつの日にか”の3曲でした。


ダイアナ・ロス在籍時の最後のヒット曲“またいつの日にか”はジョニー&ジャッキーのカヴァーでジョニー・ブリストルがトライ・ファイ時代(デュオ)の曲です


オリジナルのほうも良いと思いますので是非聴いてみてください!
JOHNNY & JACKEY @YouTube








syreeta @YouTube

2013年6月15日土曜日

【モータウン な話】Eivets Rednow “Alfie”



1966年モータウンでは久々にStevie Wonder のアルバム「アップタイト」が成功し、スティーヴィーが好調だった時期(1968年)にゴーディのアイデアでバート・バカラックの“Alfie ”というカヴァー曲をリリースします。


先行したシングルが'成功しなかったにも関わらず'ハーモニカを全面に押し出したインスト・アルバム【Eivets Rednow-Featuring Alfie 】も発表。


ゴーディはオーディション時からスティーヴィーのハーモニカの才能に魅了されていましたが 好調なスティーヴィーの演りたいことをさせた ご褒美的な感じもしますね♪


タムラのStevie Wonder ではなくスティーヴィーの名前のアルファベットを逆表記にしたペンネームでゴーディ・レーベルからの発表ですが


隠すというよりは、スティーヴィーにとって特別なアルバムではないでしょうか…

“Alfie ”はスティーヴィー自身もお気に入りのようです♪

Eivets Rednow “Alfie”@YouTube


「アルフィー」はディオンヌ・ワーウィックのカヴァーで有名ですが、もともとは映画の主題歌だったかと…


名曲「愛のハーモニー」もバート・バカラックの作曲なんですね!映画「ミスター・アーサーのテーマ」もです


皆 素晴らしい曲ではないですか!それにしてもバート・バカラックさん、他にもたくさんの有名曲を手掛けていますな。。(@_@)






ARTHUR'S THEME (Best That You Can Do)@YouTube






“That's what friends are for ”オリジナルはロッド・スチュワート



2013年6月13日木曜日

【モータウン な話】モータータウン・レヴュー





モータウンの成功のひとつに白人をも意識したタレント養成部門がありショー・ビジネスマナーを叩き込むこと

それが生かされのがモータウン・レヴューでしょう♪


ベリー・ゴーディの最も野心的な計画でアーティストを一堂に集めパッケージでライブを行うツアーは1962年11月のボストンを皮切りに23日間19都市をまわるものでした


ツアーのハイライトは南部でのショーになりますが当時の南部は公民権運動で闘争が表面化し揺れていた時期でミュージシャンのなかにはピストルを携帯しているものも


ツアー中は事件や事故に楽しいエピソードなど色々とあったが全米で「モータウン・レヴュー」は大評判となります


1965年にモータウン・レヴューはイギリスに渡り ホスト役でしょうか当時の英スター ダスティ・スプリングフィールドが共演しロンドンでも大歓迎を受け大成功したようです♪


Jジェマーソンは不参加ですがロンドンではハウス・バンドのミュージシャンたちが認識されており ライブ映像ではツアー・バンドのリーダーでEARL VAN DYKE(&ザ*ソウル*ブラザーズ)の看板文字が印象的でした

あとお立ち台のスティーヴィーも(^_^;)



ダスティ・スプリングフィールド(1939-1999)ロンドン生まれのポップスシンガー
彼女はグループ時代の米国ツアー中にモータウン・サウンドと出会いソロ転向後の作品に影響を残すモータウンの大ファン

2013年6月10日月曜日

【モータウン な話】 真面目なスモーキー②



スモーキーはハイスクールの(女の子を含む)友人たちとヴォーカル・グループ“マタドールズ”を結成し


1957年の夏にジャッキー・ウィルソンのマネージャーのオフィスでのオーディションで歌っていたところ


ベリー・ゴーディJr.もそこに訪れていた


スモーキーたちはウィルソンのマネージャーの提案が気に入らなくてその場から立ち去るのですが


スモーキーのユニークなヴォーカルと自作曲の才能を感じとったゴーディは彼らをすぐに追っかけて話をしたらしいです


その日の出会いからゴーディは彼らのレコードデビューの手助けをしスモーキーとゴーディのパートナーシップが始まるわけですね


後のモータウンの初期を支えたスモーキー・ロビンソン 彼の才能が発揮されたテンプスのマイ・ガールやM・ウェルズのマイ・ガイなどの大ヒットがありました




私が初めてミラクルズの曲を聴いたのは スモーキーが脱退した頃の“Do It Baby ”辺りからで60年代に遡って聴くことはなかったのですが・・・


ソロのスモーキーだと80年代に入ってからの“Being With You”や“Just See Her”は好きですけどね♪


スモーキー・ロビンソンは1972年にミラクルズを脱退しソロになるのですが この頃の曲もミディアムテンポで面白いです“Virgin Man”に“Baby. That's Backatcha ”など

2013年6月8日土曜日

【モータウン な話】GLADYS KNIGHT & THE PIPS



👤
コール
グラディス・ナイト&ザ・ピップスさん達がモータウンに参加したのは確か1965年だったよね!

それまではショービシネス界での経験も豊富だったんでしょう?


👤
レスポンス
グラディスのゴスペル的で迫力あるヴォーカルとバックとの息ピッタリなステージはモータウンの他のアーティストらの見本にもなったんや!

周りのミュージシャン連中も彼らは大スターになる素質があると評価も高かったって話らしいワ!

そやろ?グルーヴ!


👤
グルーヴ
そうです!グラディスは慎重でしたが ピップスの男性3人も質の高い音楽さえあれば成功できる自信があった

(※グラディスはモータウンから契約の誘いがあった時は反対であったがメンバー内でクジで決めた)

グラディスはモータウンのスタッフが私たちに力を入れるだろうかと疑っていて 当然古顔のスターが優先されることになると思っていたようです


ですがチャンスが訪れます

それはノーマン・ホイットフィールドがマーヴィン・ゲイに用意した“I HEARD IT THROUGH THE GRAPEVINE ”がゴーディに却下された為 「君たちにピッタリだから検討してみてくれ」とグラディスらに曲を預けました


2ヶ月間 彼らなりにアレンジした曲はノーマンも興奮する程ほどの出来で即録音してシングル発表できたってことです♪


すると この“悲しいうわさ”はR&B1位 全米2位の大ヒットとなりグラディス・ナイト&ザ・ピップスのモータウンにおける最大のヒットを記録!


ただ 翌年にマーヴィンのヴァージョンが発表されると こちらもマーヴィン・ゲイ初の全米1位を記録しました(^^;


その他にもエピソードはたくさんありますが 彼らはどうしてもモータウン・ファミリーになれなかっのです


グラディスには多くの評論家から アレサ・フランクリンに継ぐ“ソウルの女王”になると評価されながらも


モータウン内での扱いは そうでもなかったようですね・・・

'72ライブ動画

動画を変更しましたm(__)m(6/28)
’69年ライブ悲しいうわさ@YouTube


※I HEARD IT THROUGH THE GRAPEVINE (悲しいうわさ)はスモーキー・ロビンソン&ミラクルズも録音しています♪

2013年6月6日木曜日

【モータウンな話】THE SPINNERS






とても素敵なミュージック・ビデオに出会えたのでこちらを紹介します♪



ザ・スピナーズの“Sadie ” 




スピナーズはモータウン時代にはヒット曲に恵まれずアトランティックでトム・ベルと組んで成功しました


“Sadie”はアトランティック時代のものですが フィリー・ソウルは詳しくないため モータウン時代の話をします


スピナーズはモータウン初期から所属していて マーヴィンの師匠ことハーヴェイ・フークアのお気に入りであったという


元々はアンナ・レコード時代のフークアに指導され その後アンナ・レコード(閉めたため)からフークアが立ち上げたレーベルに移りデビューするのですが


フークアのレーベル(トライ=ファイとハーヴェイ)も上手く行かず


フークアはジョニー・ブリストルやスピナーズと共にモータウンに参加することになったと・・・


スピナーズはモータウン時代に8枚のシングルを残していたが他のアーティストの前座要員ばかり…


売れなかったのは 彼らの才能を生かせなかったディレクター(モーリス・キング)に恵まれなかったのが原因のようです



興味深いのが スピナーズの元師匠ハーヴェイ・フークアとグェン・ゴーディ(ゴーディの姉)は1967年に離婚し


自由になったフークアはRCAとプロデューサー契約を結びモータウンを離れ


グェンはスピナーズのリードヴォーカルであるG.C キャメロンと結婚 キャメロンはスピナーズを脱退しモータウンに残ります(^^;


アトランティックに移籍することになったスピナーズのリードヴォーカルにはキャメロンが紹介したフィリップ・ウィンが加入し フィリー・ソウルの黄金期を迎える


【モータウンな話】THE SPINNERS ② It's A Shame



スピナーズのモータウン時代のヒット曲“イッツ・ア・シェイム”はスティーヴィー・ワンダーのプロデュースによるもの♪


1970年 POPチャート14位 R&Bチャート4位 シリータ・ライトとリー・ギャレットもライターで参加しています♪
モータウン 傘下VIP より

1971年アルバム BEST OF THE SPINNERS もスティーヴィー(シリータ参加)によるプロデュースでした

IT'S A SHAME

2013年6月5日水曜日

【モータウンな話】THE COMMODORES(デビュー当初)





コモドアーズとは“バンプ″を世界中に広めたファンキー・グループ。


1971年にモータウンの専属となりジャクソン・ファイブのコンサート・ツアーのサポートからスタート


先輩達の世代ではザ・バンプやマシンガンで踊っていたのでしょうね・・・


私は70年代後半にレコード(disco sound special )で知りましたが  特に“マシンガン”は現在でもに踊れる最高な曲です♪
名盤


日本で特別シングル・カットされた″スーパー・マン”も面白い曲です


1975年に2度来日しておりセカンドからの“スリパリー”は東京音楽祭の参加曲でした(銅賞受賞)

コモドアーズについては たくさん書くことがありますので また何れ\(__

2013年6月4日火曜日

【モータウンな話】EDDIE KENDRICKS



👤
[コール]

四つ打ちって何??


👤
[レスポンス]
たぶんリズムのことだろう…グルーヴ教えたれ!


👤
[グルーヴ]
主にダンス・ミュージックにおいてバスドラムにより等間隔に打ち鳴らされるリズムのことを指す・・・・・・簡単に言えばダンス・ミュージックにおいて「ドン・ドン・ドン・ドン」と延々と低い音が入っているリズムとあります(wikipedia より)



その始まりは元テンプスのEddie  Kendricks の曲
“Girl You Need A Change of  Mind″(1973年)であり バスドラムで録音された四つ打ちの楽曲が初のディスコのレコードではないか・・・と書いてあります(wikipedia 参考)


 そのEddie Kendricks がテンプスを脱退時の話もモータウンでは歴史的にショッキングな出来事でした


一つにはノーマン・ホイットフィールドがテンプスの担当になり コーラス・グループからの路線変更にエディが不満を抱きグループを去ったと言われています


EDDIE KENDRICKS :1946年12月17日 アラバマ州ユニオン・スプリングス生まれ


元テンプテイションズのオリジナル・メンバーで71年にグループを去りソロとして活動


最初はパッとしなかったが 73年の夏に発表した「キープ・オン・トラッキング」が大ヒツト  


そして「ブギー・タウン」も大ヒツトするなどモータウンの看板スターにまでのし上がる



2013年6月3日月曜日

【モータウンな話】THE DYNAMIC SUPERIORS



モータウン(傘下レーベル含む)で異色のグループと言えば


先ずは 6人編成で全員白人のレア・アース

彼らはロックバンドですが 「ゲット・レディ」でのソウル・フィーリングに満ち溢れた迫力あるヴォーカルとダイナミックな演奏 が魅力ですね♪


次にアンディスピューティッド・トゥルース

彼らの サイケデリックな独特のサウンドもユニークです♪

日本で初めて紹介された「UFOs」は 当時ではとても驚きだったでしょう!





そして 異色なグループがもう1つ




ダイナミック・スーペリアーズ

1974年の秋にデビューした5人からなるヴォーカル・グループですが

当時のモータウンでは珍しいフィラデルフィア・サウンド及びイースト・コースト系です


アッシュフォード&シンプソンのプロデュース

デビュー・ヒット・シングル「シュー・シュー・シャイン」は

名曲と言っても良いでしょう♪



最近 ソウル・トレインの動画を見ましたが 結構インパクトあり(^^;

リードVo.トニーさんのファルセット・ヴォイスとコーラス・ハーモニーは素敵ですよ♪



2013年6月2日日曜日

【モータウンな話】The Undisputed Truth




👤
[コール]
 最近は80年代洋楽記事が多いすね!?



👤
[レスポンス]
好きなのはわかるが…ぼちぼちモータウンの話でも聞いてみたいのぉ~


👤
[コール]
ぼくも80年代の洋楽は好きですよ!


👤
[レスポンス]
今でもあの時代は良かったとか注目されてんやけど当時はそうでもなかったんやけどな・・・なっグルーヴ?!


👤
[グルーヴ]
そうですね…当時80年代に突入した時期、ラジオでDJや音楽評論家などは、'60~70年代の洋楽が素晴らし過ぎてて80年代は不作だと 初期の頃は言っていた記憶があります(^^;


私の場合リアルタイムで聴いていたのと思い入れも強く今でも好きですが(^^)


それに 今よりは遡って70年代ソウルやモータウン・サウンドに馴染め易かったのも良かったですね♪



私の洋楽との出会いはDISCO SOUND SPECIAL という1枚のアルバムからでした


なかでもスティーヴィ・ワンダーに惹かれたのですが


このアルバムには様々なモータウン・アーティストの曲が収録されており


その中に不思議な曲「UFO」「アイム・フール・フォー・ユー」がありました


これは アンディスピューティッド・トゥルースというグループの曲です


鬼才ノーマン・ホイットフィールドが育て上げた男性1人 女性2人からなるコーラス・グループで そのスタイルは 斬新でユニークな存在です


結成は1970年で2枚目のシングル「時には微笑みを」がヒット

テンプスの「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」(ノーマン プロデュース)は


彼らアンディスピューティッド・トルースのオリジナルだったのですね…


ノーマンがモータウンを去り自身のレーベルを立ち上げると彼らもノーマン・レーベル所属になります


その後のメンバーチェンジなどでチャカ・カーンの妹タカ・ブーンが加入しており ご存知の方も多いかも…


本日はこの動画をお借りしましたm(__)m




2013年5月5日日曜日

【モータウンな話】モータウンと社会問題


ゴーディとモータウンは常に人種

問題には慎重な態度でした



当時は白人のレコード店主がモー

タウンのレコードを陳列したがら

なかったり

白人の客がレコードを買うのをた

めらうことのないようにとの配慮

から

初期のアルバム・ジャケットにも

気をつかっていたようです



メアリ・ウェルズの「バイ・バイ・ベ

イビー」はラブ・レターが描かれ

マーヴェレッツの「プリーズ・ミス

ター・ポストマン」は郵便受けの写

真が



その他には動物や浜辺でくつろぐ

白人の恋人たちのイラストが描か

れるなどです



モータウンの歴史に於いて注目さ

れる出来事は

1966年にスティーヴィのアルバム

「アップタイト」に収録されたプロ

テスト・ソング“風に吹かれて”

ゴーディはしぶしぶアルバムに入

れることを認めたのですが

同曲は大きな話題となるとシング

ル・カットを決定し大ヒット



次作スティーヴィのアルバム「太

陽のあたる場所」のジャケットに

はモータウンで初めてゲットーの

風景が使われることになりました



公民権運動に関わった人々は忘れ

てなく1967年のデトロイト暴動の

あとにスティーヴィは聖者に祭り

上げられるのです



それでもゴーディは人種問題など

には慎重で

このようなモータウン社内の論争

に決着をつけたのはマーヴィンの

「ホワッツ・ゴーイン・オン」になり

ます


つづく




【モータウンな話】モータウンと社会問題②


1967年7月23日

警察は「社会運動のための市民連

盟」の隠れみのでもあったブライ

ンド・ピッグ(違法な酒場)をガサ

入れし、オーナーだけでなく、居

合わせた全員を逮捕した。この手

荒なあつかいを見ていた怒った住

民はすぐさま集結し・・・



この小さな騒動に端を発した暴動

は街全体が破壊されました。



不思議なことに黒人の所有する店

の多くは被害をこうむっていたの

だが、暴動の発端となった目と鼻

の先にあるモータウン・スタジオ

は被害をまぬがれたそうです。



ゴーディは復興の役割をある程度

果たしたが、公民権運動や反戦運

動に対する姿勢は、気まぐれで消

極的と思われていました。



ゴーディはビジネスマンであり成

功もしている。それなのに一部の

客に反感を抱かせるようなメッセ

ージで駄目にする気はなかった。



しかし、H=D=Hとの印税につい

ての揉め事が起こり、稼ぎ頭のス

プリームスのために新たなチーム

で曲づくりをしなくてはならなく

なり、ゴーディにとっては賭けと

なる「ラヴ・チャイルド」を発表。

この曲はスラム街での生活を歌っ

ているもので、ポップ・チャート

で1位を獲得。



その後も慎重ではあったが、ノー

マン・ホィットフィールドが書い

た「黒い戦争」や「クラウド・ナイン

」も成功した。



そしてマーヴィン・ゲイの二十世

紀の重要なアルバム「ホワッツ・ゴ

ーイン・オン」は、暴力、人種差別

、環境汚染などを題材にしており

、これにはゴーディと真っ向から

衝突したが、マーヴィンは主張を

曲げずに発表。(詳細はまた別の

機会に)



のちのスティーヴィー・ワンダー

の作品にも社会的メッセージの

“強い”曲が多くなりました


□モータウンの裏切り


デトロイトの人々にとってモータ

ウンがロスへの移転計画発表はゴ

ーディの裏切りと捕らえ「デトロ

イトの黒人ディスクジョッキーが

うちのレコードをかけなくても痛

くも痒くもない」とゴーディが発

言したと噂まで広まりデトロイト

の黒人向けラジオ局は数ヵ月間モ

ータウンのレコードを“ボイコッ

ト”しました


しかし公民権運動に関わった人々

やデトロイトの人たちは忘れてい

なかった


ただひとり例外とされたアーティ

ストがスティーヴィー・ワンダー

だったのです