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[コール] |
モータウンの歴史のなかでタミー・テレルさんの話は本当に残念です・・・僕はタミーさんならモータウンのトップ・スターになれたと思うんだ・・・
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[レスポンス] |
それはどうかな…ベリー・ゴーディーの女王ダイアナ・ロスにかける情熱は半端なかったぞ!!意地さえ感じる!今さらだな…
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[グルーヴ] |
私もタミーが亡くなったのは残念でなりません。おっしゃるとおりゴーディーはソロ・シンガーとしてもダイアナ人気を持続させ、映画やテレビ、ミュージカルなどの新しい世界で成功する大きな夢を秘めていました
当時はデトロイトの人々にそっぽを向かれていたが、モータウンのロスアンジェルス移転とハリウッド進出を実現するためにダイアナ人気を何がなんでも保たなければならなかったと思います
1970年ソロ・ダイアナのファースト・シングル“リーチ・アウト・アンド・タッチ”は4月にリリースし20位を記録
※(3月にタミー・テレルは夭折し…マーヴィン・ゲイは途方に暮れて毎日を過ごしていた…)
大ヒット間違いなしと思われる“エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ”(カヴァー)をセカンド・シングルとして7月にリリースさせています・・・
翌年、ダイアナ・ロスは結婚し冠番組を持ち主演映画の制作開始など順調に思えたがレコードの売れ行きは納得いくものではなかったのです
一方、'71年のマーヴィンは「ホワッツ・ゴーイン・オン」で見事に復活し、マーヴィン自身お気に入り「トラブル・マン」や、傑作アルバム「レッツ・ゲット・イット・オン」も成功した
1972年 ダイアナ・ロス主演映画『ビリーホリデー物語』はアカデミー賞にノミネートされるなど幸先よいスタートとなり(その後の映画は成功したとは言えない)
'73の“タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング”も久しぶりに全米1位を獲得するも
ソロ・シンガー ダイアナ・ロスの歌は(特にカヴァー曲)どれも良い出来だったが、ゴーディーを満足させるヒットとはならなかった
ゴーディーは更にダイアナ人気を取り戻すべくマーヴィンと組み合わせ、アルバムDiana & Marvin をリリース、この二人にしてPOP:26位という不本意な結果となった…
収録された“マイ・ミステイク”や“ユーアー・エブリシング”は素晴らしい曲であったが、制作中はお互いに歩み寄らず、このジャケット写真のようにダイアナとマーヴィンの心は通じあえなかったという…
後にマーヴィンは「彼女のことをもっと理解してあげるべきだった」とも答えている
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