あるタレント・ショーの出場をきっかけに、タミー・モンゴメリーとしてウォンド・レコードからデビューするがヒットせず引退したあとペンシルヴェニア大学に入学。
心理学を学んだ後業界に復帰し、ジェイムズ・ブラウンのツアーに参加。恋仲になったブラウンから暴力をうけ、逃げるようにブラウンのもとを離れたという。
チェッカーでも数曲録音し、1965年にモータウンと契約。モータウンではソロ数曲発表した後マーヴィンとコンビを組むことになった。
アメリカで放送されたタミーのドキュメンタリーのなかでは、幼少期から頭痛に悩まされていたらしく11歳の時に悲惨な暴行をうけたとなっている…
モータウンでの彼女は輝いていました。愛嬌のよさと容姿のおかげでモータウンのなかでも人気があり、ダイアンでさえ彼女の魅力にはかなわない。
マーヴィンにとっても最高のパートナーとなり、彼女の表現力も素晴らしく本当の恋人同士のようだったと。マーヴィンは歌っている時にはタミーにプラトニックに似た感情で愛していたに違いないでしょう。
タミーの実際の恋愛は、デヴィッド・ラフィンに夢中だったようです。(ドキュメンタリー番組のなかではラフィンからも暴力をうけていたらしい…)
今まさに花開こうとするシンガーと問題児ラフィンとは不釣り合いで、モータウンの多くの人間は「ラフィンは嫌いだがタミーは好きだ」「彼女ならもっといい相手がいただろうに」という。そんな忠告も効き目もなく、「タミーはラフィンをとにかく愛していたんだ」と。
1967年4月に発表された「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ」の評判でタミーは明るい未来が見えた筈だった。マーヴィンにも・・・
しかし、その数ヵ月後のステージで“ユア・プレシャス・ラヴ”を歌っている時にタミーは倒れ闘病生活に入ります。
医療費は全額ゴーディーが負担したらしいが彼女は脳腫瘍手術を受けながらもスタジオ録音もこなしていた。彼女もポジティブにそれを望んでしたのですが…後にマーヴィンはこのモータウンのやり方にも不信感があったという。
1970年3月16日、神は天使が苦しんでいるのを見かねて休息を与えた。
この2ヶ月タミーの曲ばかり聴いています。
返信削除こんなに、チャーミングな表現力のある歌手を他に知りません。
若干25歳で、亡くなっていたのですね。
僕は英語が読めないので、このような記事を書いてくれて、
本当に参考になりました。彼女の事を知りたかったので...
ありがとうございます。
モータウン前期の曲は、ほとんど好きなのですが、
特に、タミーテレル、タミー&マーヴィン、タミー・モンゴメリーの時のソロアルム、の楽曲やアレンジが、群を抜いて魅力に感じています...
別記事にあったのですが、アシュフォードシンプソンという人物が、楽曲をプロデュースしているのでしょうか?
楽曲を作成している人物にも、とても興味があるので、ご存知でしたらご教授願いたいなと。。
本当に、日本でタミーがメジャーじゃないのが、不思議です。
>Yasuhito Sugiki さん コメントありがとうございます。
削除そうですよね…タミーの魅力が日本であまり知られていないのは不思議です。
私もタミーのソロ時代の曲には興味があります。それとタミー&マーヴィンのヒット曲のほとんどがNアシュフォード&Vシンプソン(夫婦デュオ)が書いた曲やプロデュースによるものですが 何れまたこちらも紹介したいと思います。