2013年4月23日火曜日

【1972】★新たなオーディエンス獲得のために★②



1972年当時、スティーヴィーとシリータは破局をむかえ“生涯の友”として関係を再スタートしている。


シリータが去り心は傷ついたが、その痛みを紛らわすかのようにストーンズのツアーに備えて準備を進めていた。


スティーヴィーがストーンズのオープニング・アクトを務めることは、とても皮肉なことです。


1964年にはストーンズがリトル・スティーヴィーの前座をしていたわけですから。


スティーヴィーがアルバムを出せば100万枚セールス出来ると言われていた頃です。


しかしスティーヴィーは色々なSoundを吸収しようとしていたから、


そんなプライドや拘りは無かったと思われます。


さて、1972年夏 ローリング・ストーンズのコンサートは3年ぶりとあって、ストーンズの登場を待ちわびるファンが前座のグループをやじり倒していた。


しかしスティーヴィーは多くの白人オーディエンスの前で堂々とやり通したそうです。

しかし、全てが上手くいった訳ではありません。

彼のバンド、ワンダーラブのドラマーG.コープランドが突然バンドを去ったのです。


ギグのあとにテンポが乱れていたと口喧嘩をし、コープランドはスティーヴィーに向かって、


「あんたがドラムをやれよ!(ヘタなドラム)あんたがドラマーさ。ドラムスをやりながら歌って、ついでにハーモニカも一緒に吹けばいいだろ!」(^^;)


何とか直ぐに新しいドラマーも見つかりストーンズのコンサートには間に合って


関係者をほっとさせましたが、これは一つのトラブルに過ぎなかったのです。

この出来事はツアーの最中で、スティーヴィーは新しいドラマーが「間に合わなければ会場には行かない」、


ツアー・マネージャーは「何とか間に合わせろ」と言うやり取りが当然ストーンズの耳にも入りました。


この時点では、ツアーでのスティーヴィーのパフォーマンスは欠かせないものになっていたためか、ミックやキースも苛立ったようです。


この1件でスティーヴィーに対し、新聞でのキースの暴言など、


ツアーの間もミックやキースがプレスの人間にスティーヴィーに関して侮辱的な発言をしていた。


しかし、スティーヴィーは二人とも普通の状態ではなかったと言っている。


※このツアーは最も悪名高い、ストーンズ・ツアーの一つアルコール・ドラッグ・セックスの時代として、ドキュメンタリー映画「コック・サッカー・ブルース」としてカメラフィルムを回していたからビックリマークなのでは。


しかし、表現が過激なために一般公開されなかったのですが…。




次回は更に関係の泥沼化からツアー終盤へ



0 件のコメント:

コメントを投稿