2013年12月23日月曜日

The Jackson 5 - Someday At Christmas


洋楽クリスマス・ソングと云えば

昔はワムやマライアの曲が定番でしたが



最近のCMでスティーヴィーの曲が流れていることは知ってます。

そのスティーヴィーの Someday At Chriatmas (想いでのクリスマス/1967)をジャクソン・ファイブがカヴァーしたのも良いですよ!

テンプテイションズのヴァージョンもありますが、やはりマイケルの声は良いですね♪





あっ!スプリームズのこの曲も良いですね♪→The Supremes Christmas Song












2013年12月8日日曜日

John Lennon


【IMAGINE】

天国なんかないと思ってごらん

その気になればたやすいこと

ぼくたちの足元に地獄はなく

頭上にあるのは空だけ

みんなが

今日のために生きていると思ってごらん

国なんかないと思ってごらん

むずかしいことじゃない

殺し合いのもともなくなり

宗教もなくなり

みんなが

平和な人生を送っていると思ってごらん

財産なんかないと思ってごらん

君にできるかな

欲張りや飢えの必要もなく人間はみな兄弟

みんなが

全世界を分ち合っていると思ってごらん

人は ぼくを空想家だと言うかも知れない

けれどもそれは ぼくひとりじゃない

いつの日か君たちもぼくたちの仲間になって

世界がひとつになったらいいと思う

・・・・・・・・・・・・・・・



ジョン・レノン氏が亡くなられてから もう33年に・・・

当時の私は 洋楽に興味を持ち始め  レコード屋さんに毎日通い

音楽から元気をもらっていた頃でした

ジョン・レノン死去のニュースは(日本時間12月9日) 大変なショックと…恐怖も感じたかもしれません

当時のニュース(12月9日)

Borrowed Time @YouTube

“IMAGINE”-Stevie Wonder - cover

2013年12月6日金曜日

【1976】★SONGS IN THE KEY OF LIFE ★ Black Man




『ブラック・マン』

最初に死んだ人間

いま我々が掲げている旗の為に死んだ男

それは黒い人だった

いま我々が立っている土地

旗を掲げている土地

ここは最初は赤い人のものだった

船の水先案内人

コロンブスの最初の航海を成功させた男

それは茶色い人だった

汽車の線路

その鉄路を敷説したのは

黄色い人だった

我々は忠誠を誓う

生命を賭けて

・・・・・・・・・・・・・・・

世界はすべての人の為に作られたもの

神はすべての人の為にこの世界を見守る

すべての人々

すべての赤ん坊たち

すべての子供たち

すべての肌の色

すべての人種

この世界は君のもの

そして私のもの

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

世界はすべての人の為に作られたもの

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう我々は学ぶべきなのだ

世界はすべての人の為に作られたものであることを







2013.12.6

2013年11月26日火曜日

Foreigner - Waiting for a Girl Like You

Amazon.co.jp

'80年代は あらゆるジャンルから素晴らしい曲が生まれ 大好きな曲もたーくさんあります

ホント私たちの世代を楽しませてくれました


ただ 名曲を教えてと聞かれれば '60~'70年代の曲を挙げていますが・・・(^^;


80年代ですと 私のなかでは「ガール・ライク・ユー」は名曲の仲間入りですね


ただ 当時の人気ロック・バンドは スローな曲を絶妙なタイミングで出してくるんですよぉ





ガール・ライク・ユー:ビルボード シングル・チャート 10週連続2位という珍しい有名なエピソードもありますが…同アルバムからの“Jukebox Hero ”もおすすめ♪

2013年11月18日月曜日

Smokey Robinson - Just To See Her





現在ポール・マッカートニーが来日しているとあって、ビートルズ時代の曲(You've Really Got a Hold on Me :ミラクルズのカヴァー)を聴いていたら、スモーキーさんの曲を聴きたくなりました。


80年代に入り“Being With You ”がヒットし、当時は何度も繰り返し聴いた記憶があります。


その後発表した“Just to See Her ”はスモーキーらしくないというか(^^;イメチェンして くどくなく(^^;(^^;今でも好きな曲です。


この作品はS・ロビンソンが書いてませんが、彼の歌うラブ・ソングは本当に素晴らしいですよね。


それは過去の私生活に於ける悲劇な体験が、彼の作曲に影響を与えているのではないかとも言われています…

また「モータウンな話」で書くとしましょう……

今回はデュエットも3曲紹介したい!


Aretha Franklin Live @YouTube


& Sheryl Crow“You've Really Got a Hold on Me ”


Missing You - Diana Ross & Smorky Robinson

どれも素敵ですが、シェリル・クロウとの共演が一番オススメですかね♪





2013年7月23日火曜日

DETROIT ROCK CITY

ハード・ロックをあまり聴くことがないのですが、80年代初期の頃はKISS人気が凄く、試しにこの「地獄の軍団」を買った記憶があります。
デトロイト・ロック・シティ@YouTube

KISSはニューヨークで結成されましたが、ハード・ロック・グループの多くがデトロイトの街から出てきていて、この街をテーマにしたナンバーも多い。


先日のニュースで、デトロイト市が財政破綻で負債総額180億ドルはアメリカ自治体の破綻では史上最大だそうです。

かつてはアメリカの巨大な工業都市で自動車産業で栄えた街も、現在デトロイトの黒人男性の失業率は45%ともいわれ失業率増加に伴い治安が悪化し、凶悪犯罪は全米最悪の発生率である。

警官不足で通報しても現場に到着するまで1時間を要し、救急車の稼働率は30%で街路灯の40%が故障で廃墟の街となった…

1950年代には人口は180万人もいたが、1967年7月23日のデトロイト黒人暴動が起きた時のホワイト・フライト(白人の郊外への脱出)や、日本車の台頭で自動車産業が打撃を受け倒産が相次ぎ人口流出など、現在では約70万人にまで減少しているそうです。

Dancing in the Street @YouTube

Sister Act@YouTube

2013年7月13日土曜日

【モータウンな話】Florence Ballard ②



👤
[コール]
僕は、映画ドリーム・ガールズを見てフローレンス・バラードさんのエピソードを知ったんだけど…ベリー・ゴーディーjrさんやスモーキー・ロビンソンさんは、この映画の「描写は100%間違っている」と批判されてたんでしょ?


👤
[レスポンス]
確か制作側の謝罪をゴーディーが受け入れ和解した筈だ!
でも当事者の一人メリー・ウィルソンはミュージカルを見た時点で、「あれが本当のスプリームスよ!」とも言ってたけどな(^^;


👤
[コール]
やっぱり真実に近いんでしょうか…なんかショックですね…


👤
[レスポンス]
映画化以前のミュージカルが'81年からだろ!?ってことは あの事件
(ダイアナがメリーをステージ上で突き飛ばしたモータウン・スペシャル)
の前なら…自然と出た言葉かもよ!


👤
[コール]
そっか…もしその話も事実で一時的な感情で言ってないんだとしたら、尚更ショックです…ダイアナ・ロスさんへの見かたが変わります…


👤
[グルーヴ]
コールさんの気持ちもわかりますが、ダイアナの性格がどうであれ、ダイアナだからゴーディーの要求にも応え、スプリームスを引っ張りスーパースターとしてのプレッシャーにも耐えたとも言えます


ゴーディーの夢を実現したダイアナは歌唱も素敵ですし、何よりも精神力の強さは凄いですよね!


と言いながら…そう言う私もゴーディーのフェアじゃないやり方や、ダイアナばかり優遇されることに不満を募らせた人がたくさんいたのも事実だと思っています


なかでもフローレンス・バラードの悲劇は映画以上のものでした


ダイアナ・ロスがグループのリードヴォーカルを勝ち取った経緯は恋仲の噂があったブライアン・ホランドの話もある


スプリームスの初の全米1位“Where Did Our Love Go”のリードヴォーカルは当初フローでもダイアナでもなくメリー・ウィルソンに決まりかけていて


エディ・ホランドはメリーの声を薦めたが、H=D=Hの間の話し合いで2対1でダイアナになったとのこと


この“Where Did Our Love Go”の大ヒットでモータウンとスプリームスの間で再契約がなされ


スプリームスがモータウンのなかで重要なアーティストになったことを意味する


その時の契約なのかにフローが名付けた「スプリームス」という名は、フローがグループから脱退したらグループ名を使用する権利はなくなるものでした


フローがグループから孤立していったのには彼女自身にも少し問題があるにせよ、同情する部分もある


しかしフローレンス・バラードの最大の悲劇はモータウンを去ってからの話かもしれません


1967年にフローレンス・バラードは会社の方針や社内のトラブルからある条件に同意させられモータウンを去りました


それは、数年間は少額の報酬を受けれるが以後の印税は受け取れず、元スプリームスのメンバーと名乗ることも禁じるというもの


フローは弁護士を雇い一定の合意に達したあと、ABCレコードと契約し再スタートするがモータウンの巧みな妨害もあったようです


さらに雇った弁護士がフローのお金を使い込み彼女は一文無しになった


最終的には5万ドルを奪い返すのだが、争いごとばかり続いたようです・・・







The Supremes @YouTube

2013年7月11日木曜日

【モータウンな話】Florence Ballard


“少なくとも名前(THE SPUREMES)は私の作品”Florence Ballard


スプリームスの前進プライメッツ結成時の彼女たちを知る人々の話はまちまちですが


ただ、ひとつ言えることは
始まりはフローレンス・バラードだということ


フローが中心となり、プライムズ(後のテンプス)とともにデトロイト周辺で歌うようになり


フローはグループの活動に専念するために他のあらゆるものを犠牲にしグループの将来を賭けていた


因みに モータウンに入る前にはルパインという小さなレーベルでレコードも出しています

PRIMETTES@YouTube






彼女たちがモータウンと契約したのは1961年1月から


まったく評判にならず
その後メンバーの1人バーバラ・マーティンは結婚で脱退


1962年に発表されたフーズ・ラヴィン・ユー(スモーキー作)も評判にならなかったがB面のバタード・ポップコーン(ゴーディー、エイルズ作)がラジオで話題となりました


そこで、バーニー・エイルズはキャンペーンを展開し売り出そうとするがゴーディーがストップをかけたという・・・

バタード・ポップコーンはフローがリードヴォーカルでしたが

ゴーディーはこの頃からダイアナをリードに据えスプリームスを売り出そうと考えており

フロー=スプリームスのイメージ付けされるのを嫌ったようです

フローで売れては困るってことでしょうか・・・
ただ、このエピソードは後付けの感じもあります(^^;


何れにせよバタード・ポップコーンは、スプリームスの歴史のなかでも欠かせない曲となりました♪





2013年7月7日日曜日

【モータウンな話】You are everything - DIANA & MARVIG

👤
[コール]
モータウンの歴史のなかでタミー・テレルさんの話は本当に残念です・・・僕はタミーさんならモータウンのトップ・スターになれたと思うんだ・・・


👤
[レスポンス]
それはどうかな…ベリー・ゴーディーの女王ダイアナ・ロスにかける情熱は半端なかったぞ!!意地さえ感じる!今さらだな…


👤
[グルーヴ]
私もタミーが亡くなったのは残念でなりません。おっしゃるとおりゴーディーはソロ・シンガーとしてもダイアナ人気を持続させ、映画やテレビ、ミュージカルなどの新しい世界で成功する大きな夢を秘めていました


当時はデトロイトの人々にそっぽを向かれていたが、モータウンのロスアンジェルス移転とハリウッド進出を実現するためにダイアナ人気を何がなんでも保たなければならなかったと思います


1970年ソロ・ダイアナのファースト・シングル“リーチ・アウト・アンド・タッチ”は4月にリリースし20位を記録


※(3月にタミー・テレルは夭折し…マーヴィン・ゲイは途方に暮れて毎日を過ごしていた…)


大ヒット間違いなしと思われる“エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ”(カヴァー)をセカンド・シングルとして7月にリリースさせています・・・


翌年、ダイアナ・ロスは結婚し冠番組を持ち主演映画の制作開始など順調に思えたがレコードの売れ行きは納得いくものではなかったのです


一方、'71年のマーヴィンは「ホワッツ・ゴーイン・オン」で見事に復活し、マーヴィン自身お気に入り「トラブル・マン」や、傑作アルバム「レッツ・ゲット・イット・オン」も成功した


1972年 ダイアナ・ロス主演映画『ビリーホリデー物語』はアカデミー賞にノミネートされるなど幸先よいスタートとなり(その後の映画は成功したとは言えない)


'73の“タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング”も久しぶりに全米1位を獲得するも


ソロ・シンガー ダイアナ・ロスの歌は(特にカヴァー曲)どれも良い出来だったが、ゴーディーを満足させるヒットとはならなかった

ゴーディーは更にダイアナ人気を取り戻すべくマーヴィンと組み合わせ、アルバムDiana & Marvin をリリース、この二人にしてPOP:26位という不本意な結果となった…


収録された“マイ・ミステイク”や“ユーアー・エブリシング”は素晴らしい曲であったが、制作中はお互いに歩み寄らず、このジャケット写真のようにダイアナとマーヴィンの心は通じあえなかったという…


後にマーヴィンは「彼女のことをもっと理解してあげるべきだった」とも答えている


2013年7月6日土曜日

【モータウンな話】What's Going On



マーヴィン・ゲイにとってタミー・テレルとの出会いと別れは人生の転機となり、その後の音楽に影響をおよぼすことになる。


タミーは闘病しながらの活動だったが、1968年アシュフォード&シンプソンがプロデュースした傑作“You're All Need to Get By”がヒットし、


ソロ、マーヴィン・ゲイとしても“I Heard It Through the Grapevine”が初のPOP CHART 1位を獲得するなど、マーヴィンの音楽活動はデュエット、ソロ共に順調だった。


一方のタミーは度重なる手術を受けながらも、気力をふりしぼりレコーディングを試みていたが…1970年3月16日、フィラデルフィアの大学病院で息をひきとったのです。


人一倍感受性の強いマーヴィンは、タミーの病名を聞かされた頃から気づいてあげられなかったと自分を責め、死のショックから、途方に暮れて毎日を過ごすようになった。


この頃のモータウンはジャクソン・ファイブの活躍もあったが、アーティストの移籍やH-D-Hとの訴訟問題など荒れていた時期でした。


そして、1970年はダイアナ・ロスがスプリームスを脱退し、ジーン・テレル”が加入。(兄はアーニー・テレル)


モータウンはダイアナ・ロスのソロデビュー大キャンペーンを展開中だった。


好調なプロデューサーチーム、アシュフォード&シンプソンがダイアナ・ロス初のソロ・アルバムを手掛けることは自然な流れではあるが、


信じられないことにモータウンとゴーディーはタミーが亡くなったこの年にダイアナ・ヴァージョン「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ」をリリースさせている・・・


その頃もマーヴィンはタミー・テレルの病気の件からずっと色んな矛盾に悩み、暫く方向を探し求めていたそうです…


そして思いつたのが、プロフットボール選手を目指すこと…直ぐに叶わないとわかると次にボクシングに夢中になります…


徐々にではあるが前向きに行動を起こすようになり、音楽制作も始める。


それはモータウンでは許されなかった自分が演りたい音楽でした。そこに友人のクリーヴランドとベンソンの二人が完成させた“ホワッツ・ゴーイン・オン”を薦めてきた。


乗り気ではないマーヴィンを説得しづつけていたらしい・・・




2013年7月5日金曜日

【モータウンな話】Tammy Montgomery - I Cried - Early Tammi Terrell Ballad

Tammie ②




UNSUNG@YouTube







【モータウンな話】Tammie

タミー・テレル(本名Tomasina Winifred Montgomery )1945.4.29(フィラデルフィア)-1970.3.16


あるタレント・ショーの出場をきっかけに、タミー・モンゴメリーとしてウォンド・レコードからデビューするがヒットせず引退したあとペンシルヴェニア大学に入学。
心理学を学んだ後業界に復帰し、ジェイムズ・ブラウンのツアーに参加。恋仲になったブラウンから暴力をうけ、逃げるようにブラウンのもとを離れたという。

チェッカーでも数曲録音し、1965年にモータウンと契約。モータウンではソロ数曲発表した後マーヴィンとコンビを組むことになった。

アメリカで放送されたタミーのドキュメンタリーのなかでは、幼少期から頭痛に悩まされていたらしく11歳の時に悲惨な暴行をうけたとなっている…
モータウンでの彼女は輝いていました。愛嬌のよさと容姿のおかげでモータウンのなかでも人気があり、ダイアンでさえ彼女の魅力にはかなわない。

マーヴィンにとっても最高のパートナーとなり、彼女の表現力も素晴らしく本当の恋人同士のようだったと。マーヴィンは歌っている時にはタミーにプラトニックに似た感情で愛していたに違いないでしょう。

タミーの実際の恋愛は、デヴィッド・ラフィンに夢中だったようです。(ドキュメンタリー番組のなかではラフィンからも暴力をうけていたらしい…)

今まさに花開こうとするシンガーと問題児ラフィンとは不釣り合いで、モータウンの多くの人間は「ラフィンは嫌いだがタミーは好きだ」「彼女ならもっといい相手がいただろうに」という。そんな忠告も効き目もなく、「タミーはラフィンをとにかく愛していたんだ」と。

1967年4月に発表された「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ」の評判でタミーは明るい未来が見えた筈だった。マーヴィンにも・・・

しかし、その数ヵ月後のステージで“ユア・プレシャス・ラヴ”を歌っている時にタミーは倒れ闘病生活に入ります。

医療費は全額ゴーディーが負担したらしいが彼女は脳腫瘍手術を受けながらもスタジオ録音もこなしていた。彼女もポジティブにそれを望んでしたのですが…後にマーヴィンはこのモータウンのやり方にも不信感があったという。


1970年3月16日、神は天使が苦しんでいるのを見かねて休息を与えた。





2013年7月4日木曜日

【モータウンな話】才能ある人々



ベリー・ゴーディーjr. に信頼されモータウンの “初期を支えた人物を挙げるならば、


会社設立の提案をし、音楽プロデューサーとしての才能が発揮されたスモーキー・ロビンソンと、配給担当で白人のバーニー・エイルズ。


バーニー・エイルズはレコード業界での経験が買われ、白人優先主義の業界とのパイプ役に必要だった。


そしてもう一人、ウィリアム・ミッキー・スティーヴンソンは、優秀なプレイヤー(後のファンク・ブラザーズ)をモータウンと契約させ、


モータウンのデレクターとしてミュージシャン、プロデューサーたちを監督する重要な役目が与えられた。


スモーキーが手掛けた“ショップ・アラウンド”の成功は、モータウンの発展において重要な曲となったようです。




最も“貢献”したアーティストはマーヴィン・ゲイではないでしょうか・・・


マーヴィンはピアニスト兼ドラマーから始まり、さまざまなプロデューサーと組まされ、次々と女性歌手との相手役もさせられた。


W・スティーヴンソンやその部下クラレンス・ポールのプロデュースではメリー・ウェルズの相手をさせ、


スティーヴンソンの妻キム・ウェストンとの組み合わせではスティーヴンソンが自分の地位を利用していると社内の反感があったという。


それでもマーヴィンは常にチーム・プレイヤーとして全力を尽くしていた。


次のアルバムは新チーム、マーヴィンの師匠ハーヴェイ・フークアとジョニー・ブリストルがプロデュースをし、


アシュフォード&シンプソン作曲“エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ”がリリースされた。


相手役には新人のタミー・テレルが選ばれた!


彼女は愛嬌がありセクシーでモータウン内でも人気のシンガーとなり、


他の女性シンガーも彼女の魅力には誰もかなわなかったらしい。


1967年4月に発表されたエイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフはNo.1にこそならなかったが、名曲の仲間入りとなる。


しかしタミーは、その僅か数ヵ月後のステージ上でマーヴィンの腕の中に倒れ込んだのです・・・




V.Simpson & M.Stoller @YouTube

2013年6月30日日曜日

追加動画


SYREETA WRIGHT -HARMOUR LOVE



《最近に追加された動画一覧》(5月末迄の記事)

日付.記事タイトル動画名

【5/28 CYNDI】 WE ARE THE WORLD Soro Recording

【5/26 DENICE WILLIAMS】 Denice 1984 Let's Hear It For the Boy

【5/17 女性vocal】 Bette Davis Eyes-Gwynes Paltrow

【5/16 ホイットニー・ヒューストン】HIS EYE IS ON THE SPARROW

【5/15 RAY CHARLES】 Hit The Road Jack

【5/12 音楽と映画の話】 Calling you-Jevetta Steele

【5/12 映画 人間の証明のテーマ】 ジョー山中

【5/11 Respect 】 Otis Redding My Girl

【5/10 Lovin' you】 minnie riperton

【5/9 BOZ SCAGGS】 Miss Sun

【5/7 1974年 その時代と音楽】 “悪夢”Stevie Wonder

【5/7 1979年 その時代と音楽】 Michael Jackson Don't StopTil You Get Enough

【5/2 モータウンな話 ガール・グループ②】 1983Supremes Reunion


※アメブロからの引っ越し記事の為(5月末迄)、動画はあとからになりましたm(__)m



2013年6月28日金曜日

CHAKA KHAN

今年もチャカ・カーンが来るぜよ

この人はホント存在感がありますよね♪




チャカ・カーンはルーファスのリード・ヴォーカル時代だった頃から存在感は際立っていたようです


ジャズ寄りの歌いかたも魅力ですが、私のイメージは容姿も歌唱も豪快な姐さんって感じです


そんな姐さんでも、共演したエッタ・ジェームズとグラディスナイトの迫力には勝てないかも・・・




I Feel For You /フィール・フォー・ユー(プリンスのカヴァー)は


当時でも珍しいイントロにラップを取り入れたことが斬新であったのとスティーヴィーのハーモニカも絶妙です!


それにブレイクダンスがブームの頃でディスコのDJにも好まれた曲でした   懐かしい~




tv show










サタデー・ナイト・ライブ@YouTube


THE COSBY SHOW @YouTube


LIVE in New York @YouTube



Steve Harvey と“I WISH”

2013年6月25日火曜日

Whitney Houston (LIVE) "Master Blaster (Jammin')"


取扱注意!
爆発物につき以下の
注意厳守のこと!
1.ターンテーブルを水平に保つ
2.ボリュームを上げる
3.後ろに下がって聞くこと

このマスター・ブラスターのジャケットはとてもユニークで爆竹の絵も描かれています
レゲエ・サウンドを基調に、歌詞にはボブ・マーリーが登場


スティーヴィーは70年代前半の頃からレゲエに興味があったのですが、1981年のアルバム「ホッター・ザン・ジュライ」からようやく取り入れてきました


そのボブ・マーリーつながりから最近のローリン・ヒルはどうなんでしょう?金銭トラブルもあったとか…早く完全復活を見たいものです。

LAURYN HILL Isn't She Lovely @YouTube


ローリン・ヒルのマスター・ブラスターを探していたのですが、なかなか気に入ったものが見つからず今回はホイットニー・ヒューストンのライブ映像にしました。

ホイットニーのMaster Blasterも良い!




Whitney Houston & Lauryn Hill @YouTube←こちらはお二人によるスティーヴィーの曲をカヴァー

歌姫とスティーヴィーの共演@YouTube←ホイットニーとの掛け合いが最高ですね♪

2013年6月22日土曜日

【モータウンな話】DIANA ROSS AND THE SUPREMES





ダイアナ・ロス&ザ・スプリームスの活動は2年程です。


1967年にはフローレンス・バラードがザ・スプリームスを脱退し
代わりにパティ・ラベル&ザ・ブルーベルズからシンディ・バードソングが参加してきました。


そして、グループ名はダイアナ・ロス&ザ・スプリームスとなりアルバムREFLECTIONを発表します。(シングルス“リフレクション”2位)


しかし、このアルバムを最後にグループの担当プロデューサー・チームH=D=Hがモータンを去ります。


H=D=Hというモータウンの柱を失ったベリー・ゴーディjr.
次のアルバムには自らプロデュースに参加し
賭けとなるグループ初の社会的メッセージを込めたラブ・チャイルドを発表した。


この曲は見事に全米1位を獲得しましました。


新たなグループでダイアナが脱退するまでの全米ナンバーワンに輝いたのは、


ラブ・チャイルドとテンプスとの共演“君に愛されたい”
そして脱退発表後の“またいつの日にか”の3曲でした。


ダイアナ・ロス在籍時の最後のヒット曲“またいつの日にか”はジョニー&ジャッキーのカヴァーでジョニー・ブリストルがトライ・ファイ時代(デュオ)の曲です


オリジナルのほうも良いと思いますので是非聴いてみてください!
JOHNNY & JACKEY @YouTube








syreeta @YouTube

2013年6月21日金曜日

Quincy Jones ⑤

Quincy と Ray


映画「レイ」のシーンやクインシー・ジョーンズ自叙伝の記述にもあるように、クインシーとレイは長い付き合いの大親友でした。

レイ・チャールズは16歳でクインシーが14歳の時にシアトルで出会い互いに将来の夢を語り合っていたのです。

1951年からそれぞれの道を歩きはじめ、シアトルで二人で描いたさまざまな夢を実行していきます。

レイ・チャールズYouTube動画は削除しましたm(__)m


盲目の人間は人の心を読むことができる。耳に聞こえるひと言ひと言から、その人物の心が伝わってくる。クインシーの口調にはやさしさが感じられた。彼は誠実だった。…………………………私たちはすぐに友達になった。…………………………長い付き合いだが、彼は昔とこれっぽっちも変わっていない。彼はずっとあの頃のクインシーのままだ。まったく途方もないガキだ。
私は彼が大好きだ。
レイ・チャールズがそう言っていたと書いてくれ。(クインシー・ジョーンズ自叙伝より)


2013年6月20日木曜日

Quincy Jones ④



クインシー・ジョーンズがマイケル少年と初めて会ったのは1972年サミー・デイビスjr. のパーティーでした。


そして、初めて仕事をしたのがクインシーが音楽監督をつとめた映画『ウィズ』になります。(マイケル出演)


サントラの評価は高いが映画の評判は低く、私もこの映画をいつかは見ようと思いながらまだ見ぬです(^^;


しかし考えてみると30代半ばでドロシーを演じたダイアナに(^^; かかし役のマイケルを見れるだけでも貴重ですね…


この映画の製作中にマイケルはエピックRから初のソロ・アルバムを出す計画があり、プロデューサーを見つけるのを手伝ってほしいとクインシーに相談したそうです。


当時クインシーは映画音楽の仕事がウィズの後も忙しかったのですがプロデューサー探しを約束していました。


映画のリハーサルが進むにつれてクインシーはマイケルの仕事に対する姿勢に感心し、あるワンシーンをきっかけにマイケルの純粋な人柄に触れてソロ・アルバムをプロデュースすることを決意したと…


SワンダーやMゲイがクインシーとの共作を望んでもモータウンが嫌ったようにエピックも最初はジャズの印象が強いクインシーとは組ませないと反対していた・・・
(関連記事:1979年【その時代と音楽】参考:クインシー・ジョーンズ自叙伝)






2013年6月18日火曜日

Quincy Jones③


クインシー・ジョーンズのアルバム『ユーヴ・ゴット・イット・バット・ガール』(1973年)には、

アルバム・タイトルと同じ「男性の自分勝手な気持ちを歌った」内容の“You 've  got it bad girl ”と

「アメリカに昔から伝わる不可思議な事を信じるとロクなことがないよ」と歌う名曲“Superstition ”が収録されており、

この2曲はスティーヴィー・ワンダーが前年(1972年)に発表した『トーキング・ブック』からのカヴァーです。


“Superstition ”と言えばジェフ・ベック(ベック,ボガート&アピス)がカヴァーし、双方の言葉の行き違いからマスコミとレコード会社を巻き込む騒動となったことでも有名ですよね。


ベック・ヴァージョンではスティーヴィーのレコーディング部分(クラヴィネット)が使われなかったのですが、

クインシー・ヴァージョンはスティーヴィーのハーモニカとビル・ウィザースとビリー・プレストンがヴォーカル参加しています。

スティーヴィーはベックよりクインシーのヴァージョンがお気に入りのようです♪

ただ、クインシーはこのアルバム全体の出来を気に入ってないのでは…と何かの記事で見た記憶がありますが・・・(^_^;)




そして、ドナ・サマーが亡くなり一年になるのですね…

クインシー・ジョーンズの数あるプロジェクトのなかのひとつにドナ・サマーの1982年の『ステイト・オブ・インディペンデンス』(ジョンアンダーソン&ヴァンゲリス:1981のカヴァー)という曲があり、後の“we are the woord”に繋がったと言われています。

“State of Independence レコーディング”@YouTube

Donna Summer @YouTube

2013年6月17日月曜日

Quincy Jones ②

インナーヴィジョン: Quincy Jones ←前回の記事はこちら】

2012年12月30日 初版発行
著者 クインシー・ジョーンズ
訳者 中山啓子
発行所 河出書房新社







今年で80歳になったQuincy Jones の生誕を祝い 功績をたたえるという日本公演がこの夏に行われます!


そう言えば【クインシー・ジョーンズ自叙伝】を私は未だに全部読めてません(^_^;)この機会に読もうと思います♪


part1で少し触れましたが女優ウーピー・ゴールドバーグのファンでもあるので、映画『カラーパープル』のエピソードはしっかり読みました。


クインシーさんは『ウイ・アー・ザ・ワールド』を完成させた次の日からスティーヴン・スピルバーグ監督とティナ・ターナー(当初は主役の一人として要請していた・・・)と会い、映画のプロジェクトで動き出したようです!


映画はアカデミー賞11部門でノミネートされるなどヒットしましたが、その余波からノイローゼに陥ったそうです…

※製作中などのエピソードは控えます(^_^;)m(__)m



『カラーパープル』ワンシーン@YouTube


私はクインシー・ジョーンズと繋がりの深いスティーヴィー・ワンダーから洋楽を聴くようになり、スティーヴィーやレイ・チャールズのライブも生で見ました。マイケルのショーは見れなかったのですが彼らの音楽は大好きです♪

クインシーさんが32年ぶりに来日して頂けるというのがとても嬉しく思います♪

それを実現させてくれた関係者の皆さまのご尽力に感謝!!m(__)m


2013年6月15日土曜日

【モータウン な話】Eivets Rednow “Alfie”



1966年モータウンでは久々にStevie Wonder のアルバム「アップタイト」が成功し、スティーヴィーが好調だった時期(1968年)にゴーディのアイデアでバート・バカラックの“Alfie ”というカヴァー曲をリリースします。


先行したシングルが'成功しなかったにも関わらず'ハーモニカを全面に押し出したインスト・アルバム【Eivets Rednow-Featuring Alfie 】も発表。


ゴーディはオーディション時からスティーヴィーのハーモニカの才能に魅了されていましたが 好調なスティーヴィーの演りたいことをさせた ご褒美的な感じもしますね♪


タムラのStevie Wonder ではなくスティーヴィーの名前のアルファベットを逆表記にしたペンネームでゴーディ・レーベルからの発表ですが


隠すというよりは、スティーヴィーにとって特別なアルバムではないでしょうか…

“Alfie ”はスティーヴィー自身もお気に入りのようです♪

Eivets Rednow “Alfie”@YouTube


「アルフィー」はディオンヌ・ワーウィックのカヴァーで有名ですが、もともとは映画の主題歌だったかと…


名曲「愛のハーモニー」もバート・バカラックの作曲なんですね!映画「ミスター・アーサーのテーマ」もです


皆 素晴らしい曲ではないですか!それにしてもバート・バカラックさん、他にもたくさんの有名曲を手掛けていますな。。(@_@)






ARTHUR'S THEME (Best That You Can Do)@YouTube






“That's what friends are for ”オリジナルはロッド・スチュワート



2013年6月13日木曜日

【モータウン な話】モータータウン・レヴュー





モータウンの成功のひとつに白人をも意識したタレント養成部門がありショー・ビジネスマナーを叩き込むこと

それが生かされのがモータウン・レヴューでしょう♪


ベリー・ゴーディの最も野心的な計画でアーティストを一堂に集めパッケージでライブを行うツアーは1962年11月のボストンを皮切りに23日間19都市をまわるものでした


ツアーのハイライトは南部でのショーになりますが当時の南部は公民権運動で闘争が表面化し揺れていた時期でミュージシャンのなかにはピストルを携帯しているものも


ツアー中は事件や事故に楽しいエピソードなど色々とあったが全米で「モータウン・レヴュー」は大評判となります


1965年にモータウン・レヴューはイギリスに渡り ホスト役でしょうか当時の英スター ダスティ・スプリングフィールドが共演しロンドンでも大歓迎を受け大成功したようです♪


Jジェマーソンは不参加ですがロンドンではハウス・バンドのミュージシャンたちが認識されており ライブ映像ではツアー・バンドのリーダーでEARL VAN DYKE(&ザ*ソウル*ブラザーズ)の看板文字が印象的でした

あとお立ち台のスティーヴィーも(^_^;)



ダスティ・スプリングフィールド(1939-1999)ロンドン生まれのポップスシンガー
彼女はグループ時代の米国ツアー中にモータウン・サウンドと出会いソロ転向後の作品に影響を残すモータウンの大ファン

2013年6月12日水曜日

HOWLIN' WOLF - Smokestack Lightning




映画キャデラック・レコードは、登場人物と背景の年度に実際とは違いがあるようですが 、 映画としては音楽も素晴らしく楽しめました♪



登場人物の皆さん偉大な音楽家ですが なかでも強烈な印象だったのがリトル・ウォルター とハウリン・ウルフです


ハウリン・ウルフ(1910-1976)南部出身のブルーズ・シンガー
チャック・ベリーやマディー・ウォーターズもそうですがハウリン・ウルフも英ロック・バンドに多大な影響を与える


ブルーズに詳しくないので何から聴いていいのやらって感じなんですけれど・・・


YouTube動画は削除しましたm(__)m


BEYONCE 'At Last'(Beyonce Singing the Etta James)

2013年6月11日火曜日

Walter "Shakey" Horton - Shakey's Blues




 自分がブルーズ好きなのは 最近うすうす気がついていたのですが…

因みにレコードは1枚も持ってません!


ただ映画キャデラック・レコードを何度か見てさらに興味が広がりました♪


なので映画のシーンにあったリトル・ウォルター“My Babe”の動画を探していたら・・・


ビッグ・ウォルターという人もいるんだと気がつき(ブルーズファンの方なら当然ご存じでしょうけど…)

調べてみました!



通称big walter またはwalter “shakey ”horton

ビッグ・ウォルター・ホートン(1917-1981)

アンプリファイド・ハーププロアー??要はブルーズハーピストですね(^^;

名前の逸話もあるようですが…


リトルもいいがビッグ・ウォルターさんからブルーズを知るのも良いかも♪

YouTube動画は削除しましたm(__)m

2013年6月10日月曜日

【モータウン な話】 真面目なスモーキー②



スモーキーはハイスクールの(女の子を含む)友人たちとヴォーカル・グループ“マタドールズ”を結成し


1957年の夏にジャッキー・ウィルソンのマネージャーのオフィスでのオーディションで歌っていたところ


ベリー・ゴーディJr.もそこに訪れていた


スモーキーたちはウィルソンのマネージャーの提案が気に入らなくてその場から立ち去るのですが


スモーキーのユニークなヴォーカルと自作曲の才能を感じとったゴーディは彼らをすぐに追っかけて話をしたらしいです


その日の出会いからゴーディは彼らのレコードデビューの手助けをしスモーキーとゴーディのパートナーシップが始まるわけですね


後のモータウンの初期を支えたスモーキー・ロビンソン 彼の才能が発揮されたテンプスのマイ・ガールやM・ウェルズのマイ・ガイなどの大ヒットがありました




私が初めてミラクルズの曲を聴いたのは スモーキーが脱退した頃の“Do It Baby ”辺りからで60年代に遡って聴くことはなかったのですが・・・


ソロのスモーキーだと80年代に入ってからの“Being With You”や“Just See Her”は好きですけどね♪


スモーキー・ロビンソンは1972年にミラクルズを脱退しソロになるのですが この頃の曲もミディアムテンポで面白いです“Virgin Man”に“Baby. That's Backatcha ”など

2013年6月8日土曜日

【モータウン な話】GLADYS KNIGHT & THE PIPS



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コール
グラディス・ナイト&ザ・ピップスさん達がモータウンに参加したのは確か1965年だったよね!

それまではショービシネス界での経験も豊富だったんでしょう?


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レスポンス
グラディスのゴスペル的で迫力あるヴォーカルとバックとの息ピッタリなステージはモータウンの他のアーティストらの見本にもなったんや!

周りのミュージシャン連中も彼らは大スターになる素質があると評価も高かったって話らしいワ!

そやろ?グルーヴ!


👤
グルーヴ
そうです!グラディスは慎重でしたが ピップスの男性3人も質の高い音楽さえあれば成功できる自信があった

(※グラディスはモータウンから契約の誘いがあった時は反対であったがメンバー内でクジで決めた)

グラディスはモータウンのスタッフが私たちに力を入れるだろうかと疑っていて 当然古顔のスターが優先されることになると思っていたようです


ですがチャンスが訪れます

それはノーマン・ホイットフィールドがマーヴィン・ゲイに用意した“I HEARD IT THROUGH THE GRAPEVINE ”がゴーディに却下された為 「君たちにピッタリだから検討してみてくれ」とグラディスらに曲を預けました


2ヶ月間 彼らなりにアレンジした曲はノーマンも興奮する程ほどの出来で即録音してシングル発表できたってことです♪


すると この“悲しいうわさ”はR&B1位 全米2位の大ヒットとなりグラディス・ナイト&ザ・ピップスのモータウンにおける最大のヒットを記録!


ただ 翌年にマーヴィンのヴァージョンが発表されると こちらもマーヴィン・ゲイ初の全米1位を記録しました(^^;


その他にもエピソードはたくさんありますが 彼らはどうしてもモータウン・ファミリーになれなかっのです


グラディスには多くの評論家から アレサ・フランクリンに継ぐ“ソウルの女王”になると評価されながらも


モータウン内での扱いは そうでもなかったようですね・・・

'72ライブ動画

動画を変更しましたm(__)m(6/28)
’69年ライブ悲しいうわさ@YouTube


※I HEARD IT THROUGH THE GRAPEVINE (悲しいうわさ)はスモーキー・ロビンソン&ミラクルズも録音しています♪

2013年6月6日木曜日

【モータウンな話】THE SPINNERS






とても素敵なミュージック・ビデオに出会えたのでこちらを紹介します♪



ザ・スピナーズの“Sadie ” 




スピナーズはモータウン時代にはヒット曲に恵まれずアトランティックでトム・ベルと組んで成功しました


“Sadie”はアトランティック時代のものですが フィリー・ソウルは詳しくないため モータウン時代の話をします


スピナーズはモータウン初期から所属していて マーヴィンの師匠ことハーヴェイ・フークアのお気に入りであったという


元々はアンナ・レコード時代のフークアに指導され その後アンナ・レコード(閉めたため)からフークアが立ち上げたレーベルに移りデビューするのですが


フークアのレーベル(トライ=ファイとハーヴェイ)も上手く行かず


フークアはジョニー・ブリストルやスピナーズと共にモータウンに参加することになったと・・・


スピナーズはモータウン時代に8枚のシングルを残していたが他のアーティストの前座要員ばかり…


売れなかったのは 彼らの才能を生かせなかったディレクター(モーリス・キング)に恵まれなかったのが原因のようです



興味深いのが スピナーズの元師匠ハーヴェイ・フークアとグェン・ゴーディ(ゴーディの姉)は1967年に離婚し


自由になったフークアはRCAとプロデューサー契約を結びモータウンを離れ


グェンはスピナーズのリードヴォーカルであるG.C キャメロンと結婚 キャメロンはスピナーズを脱退しモータウンに残ります(^^;


アトランティックに移籍することになったスピナーズのリードヴォーカルにはキャメロンが紹介したフィリップ・ウィンが加入し フィリー・ソウルの黄金期を迎える


【モータウンな話】THE SPINNERS ② It's A Shame



スピナーズのモータウン時代のヒット曲“イッツ・ア・シェイム”はスティーヴィー・ワンダーのプロデュースによるもの♪


1970年 POPチャート14位 R&Bチャート4位 シリータ・ライトとリー・ギャレットもライターで参加しています♪
モータウン 傘下VIP より

1971年アルバム BEST OF THE SPINNERS もスティーヴィー(シリータ参加)によるプロデュースでした

IT'S A SHAME

2013年6月5日水曜日

【モータウンな話】THE COMMODORES(デビュー当初)





コモドアーズとは“バンプ″を世界中に広めたファンキー・グループ。


1971年にモータウンの専属となりジャクソン・ファイブのコンサート・ツアーのサポートからスタート


先輩達の世代ではザ・バンプやマシンガンで踊っていたのでしょうね・・・


私は70年代後半にレコード(disco sound special )で知りましたが  特に“マシンガン”は現在でもに踊れる最高な曲です♪
名盤


日本で特別シングル・カットされた″スーパー・マン”も面白い曲です


1975年に2度来日しておりセカンドからの“スリパリー”は東京音楽祭の参加曲でした(銅賞受賞)

コモドアーズについては たくさん書くことがありますので また何れ\(__