2013年7月23日火曜日

DETROIT ROCK CITY

ハード・ロックをあまり聴くことがないのですが、80年代初期の頃はKISS人気が凄く、試しにこの「地獄の軍団」を買った記憶があります。
デトロイト・ロック・シティ@YouTube

KISSはニューヨークで結成されましたが、ハード・ロック・グループの多くがデトロイトの街から出てきていて、この街をテーマにしたナンバーも多い。


先日のニュースで、デトロイト市が財政破綻で負債総額180億ドルはアメリカ自治体の破綻では史上最大だそうです。

かつてはアメリカの巨大な工業都市で自動車産業で栄えた街も、現在デトロイトの黒人男性の失業率は45%ともいわれ失業率増加に伴い治安が悪化し、凶悪犯罪は全米最悪の発生率である。

警官不足で通報しても現場に到着するまで1時間を要し、救急車の稼働率は30%で街路灯の40%が故障で廃墟の街となった…

1950年代には人口は180万人もいたが、1967年7月23日のデトロイト黒人暴動が起きた時のホワイト・フライト(白人の郊外への脱出)や、日本車の台頭で自動車産業が打撃を受け倒産が相次ぎ人口流出など、現在では約70万人にまで減少しているそうです。

Dancing in the Street @YouTube

Sister Act@YouTube

2013年7月13日土曜日

【モータウンな話】Florence Ballard ②



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[コール]
僕は、映画ドリーム・ガールズを見てフローレンス・バラードさんのエピソードを知ったんだけど…ベリー・ゴーディーjrさんやスモーキー・ロビンソンさんは、この映画の「描写は100%間違っている」と批判されてたんでしょ?


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[レスポンス]
確か制作側の謝罪をゴーディーが受け入れ和解した筈だ!
でも当事者の一人メリー・ウィルソンはミュージカルを見た時点で、「あれが本当のスプリームスよ!」とも言ってたけどな(^^;


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[コール]
やっぱり真実に近いんでしょうか…なんかショックですね…


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[レスポンス]
映画化以前のミュージカルが'81年からだろ!?ってことは あの事件
(ダイアナがメリーをステージ上で突き飛ばしたモータウン・スペシャル)
の前なら…自然と出た言葉かもよ!


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[コール]
そっか…もしその話も事実で一時的な感情で言ってないんだとしたら、尚更ショックです…ダイアナ・ロスさんへの見かたが変わります…


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[グルーヴ]
コールさんの気持ちもわかりますが、ダイアナの性格がどうであれ、ダイアナだからゴーディーの要求にも応え、スプリームスを引っ張りスーパースターとしてのプレッシャーにも耐えたとも言えます


ゴーディーの夢を実現したダイアナは歌唱も素敵ですし、何よりも精神力の強さは凄いですよね!


と言いながら…そう言う私もゴーディーのフェアじゃないやり方や、ダイアナばかり優遇されることに不満を募らせた人がたくさんいたのも事実だと思っています


なかでもフローレンス・バラードの悲劇は映画以上のものでした


ダイアナ・ロスがグループのリードヴォーカルを勝ち取った経緯は恋仲の噂があったブライアン・ホランドの話もある


スプリームスの初の全米1位“Where Did Our Love Go”のリードヴォーカルは当初フローでもダイアナでもなくメリー・ウィルソンに決まりかけていて


エディ・ホランドはメリーの声を薦めたが、H=D=Hの間の話し合いで2対1でダイアナになったとのこと


この“Where Did Our Love Go”の大ヒットでモータウンとスプリームスの間で再契約がなされ


スプリームスがモータウンのなかで重要なアーティストになったことを意味する


その時の契約なのかにフローが名付けた「スプリームス」という名は、フローがグループから脱退したらグループ名を使用する権利はなくなるものでした


フローがグループから孤立していったのには彼女自身にも少し問題があるにせよ、同情する部分もある


しかしフローレンス・バラードの最大の悲劇はモータウンを去ってからの話かもしれません


1967年にフローレンス・バラードは会社の方針や社内のトラブルからある条件に同意させられモータウンを去りました


それは、数年間は少額の報酬を受けれるが以後の印税は受け取れず、元スプリームスのメンバーと名乗ることも禁じるというもの


フローは弁護士を雇い一定の合意に達したあと、ABCレコードと契約し再スタートするがモータウンの巧みな妨害もあったようです


さらに雇った弁護士がフローのお金を使い込み彼女は一文無しになった


最終的には5万ドルを奪い返すのだが、争いごとばかり続いたようです・・・







The Supremes @YouTube

2013年7月11日木曜日

【モータウンな話】Florence Ballard


“少なくとも名前(THE SPUREMES)は私の作品”Florence Ballard


スプリームスの前進プライメッツ結成時の彼女たちを知る人々の話はまちまちですが


ただ、ひとつ言えることは
始まりはフローレンス・バラードだということ


フローが中心となり、プライムズ(後のテンプス)とともにデトロイト周辺で歌うようになり


フローはグループの活動に専念するために他のあらゆるものを犠牲にしグループの将来を賭けていた


因みに モータウンに入る前にはルパインという小さなレーベルでレコードも出しています

PRIMETTES@YouTube






彼女たちがモータウンと契約したのは1961年1月から


まったく評判にならず
その後メンバーの1人バーバラ・マーティンは結婚で脱退


1962年に発表されたフーズ・ラヴィン・ユー(スモーキー作)も評判にならなかったがB面のバタード・ポップコーン(ゴーディー、エイルズ作)がラジオで話題となりました


そこで、バーニー・エイルズはキャンペーンを展開し売り出そうとするがゴーディーがストップをかけたという・・・

バタード・ポップコーンはフローがリードヴォーカルでしたが

ゴーディーはこの頃からダイアナをリードに据えスプリームスを売り出そうと考えており

フロー=スプリームスのイメージ付けされるのを嫌ったようです

フローで売れては困るってことでしょうか・・・
ただ、このエピソードは後付けの感じもあります(^^;


何れにせよバタード・ポップコーンは、スプリームスの歴史のなかでも欠かせない曲となりました♪





2013年7月7日日曜日

【モータウンな話】You are everything - DIANA & MARVIG

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[コール]
モータウンの歴史のなかでタミー・テレルさんの話は本当に残念です・・・僕はタミーさんならモータウンのトップ・スターになれたと思うんだ・・・


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[レスポンス]
それはどうかな…ベリー・ゴーディーの女王ダイアナ・ロスにかける情熱は半端なかったぞ!!意地さえ感じる!今さらだな…


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[グルーヴ]
私もタミーが亡くなったのは残念でなりません。おっしゃるとおりゴーディーはソロ・シンガーとしてもダイアナ人気を持続させ、映画やテレビ、ミュージカルなどの新しい世界で成功する大きな夢を秘めていました


当時はデトロイトの人々にそっぽを向かれていたが、モータウンのロスアンジェルス移転とハリウッド進出を実現するためにダイアナ人気を何がなんでも保たなければならなかったと思います


1970年ソロ・ダイアナのファースト・シングル“リーチ・アウト・アンド・タッチ”は4月にリリースし20位を記録


※(3月にタミー・テレルは夭折し…マーヴィン・ゲイは途方に暮れて毎日を過ごしていた…)


大ヒット間違いなしと思われる“エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ”(カヴァー)をセカンド・シングルとして7月にリリースさせています・・・


翌年、ダイアナ・ロスは結婚し冠番組を持ち主演映画の制作開始など順調に思えたがレコードの売れ行きは納得いくものではなかったのです


一方、'71年のマーヴィンは「ホワッツ・ゴーイン・オン」で見事に復活し、マーヴィン自身お気に入り「トラブル・マン」や、傑作アルバム「レッツ・ゲット・イット・オン」も成功した


1972年 ダイアナ・ロス主演映画『ビリーホリデー物語』はアカデミー賞にノミネートされるなど幸先よいスタートとなり(その後の映画は成功したとは言えない)


'73の“タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング”も久しぶりに全米1位を獲得するも


ソロ・シンガー ダイアナ・ロスの歌は(特にカヴァー曲)どれも良い出来だったが、ゴーディーを満足させるヒットとはならなかった

ゴーディーは更にダイアナ人気を取り戻すべくマーヴィンと組み合わせ、アルバムDiana & Marvin をリリース、この二人にしてPOP:26位という不本意な結果となった…


収録された“マイ・ミステイク”や“ユーアー・エブリシング”は素晴らしい曲であったが、制作中はお互いに歩み寄らず、このジャケット写真のようにダイアナとマーヴィンの心は通じあえなかったという…


後にマーヴィンは「彼女のことをもっと理解してあげるべきだった」とも答えている


2013年7月6日土曜日

【モータウンな話】What's Going On



マーヴィン・ゲイにとってタミー・テレルとの出会いと別れは人生の転機となり、その後の音楽に影響をおよぼすことになる。


タミーは闘病しながらの活動だったが、1968年アシュフォード&シンプソンがプロデュースした傑作“You're All Need to Get By”がヒットし、


ソロ、マーヴィン・ゲイとしても“I Heard It Through the Grapevine”が初のPOP CHART 1位を獲得するなど、マーヴィンの音楽活動はデュエット、ソロ共に順調だった。


一方のタミーは度重なる手術を受けながらも、気力をふりしぼりレコーディングを試みていたが…1970年3月16日、フィラデルフィアの大学病院で息をひきとったのです。


人一倍感受性の強いマーヴィンは、タミーの病名を聞かされた頃から気づいてあげられなかったと自分を責め、死のショックから、途方に暮れて毎日を過ごすようになった。


この頃のモータウンはジャクソン・ファイブの活躍もあったが、アーティストの移籍やH-D-Hとの訴訟問題など荒れていた時期でした。


そして、1970年はダイアナ・ロスがスプリームスを脱退し、ジーン・テレル”が加入。(兄はアーニー・テレル)


モータウンはダイアナ・ロスのソロデビュー大キャンペーンを展開中だった。


好調なプロデューサーチーム、アシュフォード&シンプソンがダイアナ・ロス初のソロ・アルバムを手掛けることは自然な流れではあるが、


信じられないことにモータウンとゴーディーはタミーが亡くなったこの年にダイアナ・ヴァージョン「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ」をリリースさせている・・・


その頃もマーヴィンはタミー・テレルの病気の件からずっと色んな矛盾に悩み、暫く方向を探し求めていたそうです…


そして思いつたのが、プロフットボール選手を目指すこと…直ぐに叶わないとわかると次にボクシングに夢中になります…


徐々にではあるが前向きに行動を起こすようになり、音楽制作も始める。


それはモータウンでは許されなかった自分が演りたい音楽でした。そこに友人のクリーヴランドとベンソンの二人が完成させた“ホワッツ・ゴーイン・オン”を薦めてきた。


乗り気ではないマーヴィンを説得しづつけていたらしい・・・




2013年7月5日金曜日

【モータウンな話】Tammy Montgomery - I Cried - Early Tammi Terrell Ballad

Tammie ②




UNSUNG@YouTube







【モータウンな話】Tammie

タミー・テレル(本名Tomasina Winifred Montgomery )1945.4.29(フィラデルフィア)-1970.3.16


あるタレント・ショーの出場をきっかけに、タミー・モンゴメリーとしてウォンド・レコードからデビューするがヒットせず引退したあとペンシルヴェニア大学に入学。
心理学を学んだ後業界に復帰し、ジェイムズ・ブラウンのツアーに参加。恋仲になったブラウンから暴力をうけ、逃げるようにブラウンのもとを離れたという。

チェッカーでも数曲録音し、1965年にモータウンと契約。モータウンではソロ数曲発表した後マーヴィンとコンビを組むことになった。

アメリカで放送されたタミーのドキュメンタリーのなかでは、幼少期から頭痛に悩まされていたらしく11歳の時に悲惨な暴行をうけたとなっている…
モータウンでの彼女は輝いていました。愛嬌のよさと容姿のおかげでモータウンのなかでも人気があり、ダイアンでさえ彼女の魅力にはかなわない。

マーヴィンにとっても最高のパートナーとなり、彼女の表現力も素晴らしく本当の恋人同士のようだったと。マーヴィンは歌っている時にはタミーにプラトニックに似た感情で愛していたに違いないでしょう。

タミーの実際の恋愛は、デヴィッド・ラフィンに夢中だったようです。(ドキュメンタリー番組のなかではラフィンからも暴力をうけていたらしい…)

今まさに花開こうとするシンガーと問題児ラフィンとは不釣り合いで、モータウンの多くの人間は「ラフィンは嫌いだがタミーは好きだ」「彼女ならもっといい相手がいただろうに」という。そんな忠告も効き目もなく、「タミーはラフィンをとにかく愛していたんだ」と。

1967年4月に発表された「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ」の評判でタミーは明るい未来が見えた筈だった。マーヴィンにも・・・

しかし、その数ヵ月後のステージで“ユア・プレシャス・ラヴ”を歌っている時にタミーは倒れ闘病生活に入ります。

医療費は全額ゴーディーが負担したらしいが彼女は脳腫瘍手術を受けながらもスタジオ録音もこなしていた。彼女もポジティブにそれを望んでしたのですが…後にマーヴィンはこのモータウンのやり方にも不信感があったという。


1970年3月16日、神は天使が苦しんでいるのを見かねて休息を与えた。





2013年7月4日木曜日

【モータウンな話】才能ある人々



ベリー・ゴーディーjr. に信頼されモータウンの “初期を支えた人物を挙げるならば、


会社設立の提案をし、音楽プロデューサーとしての才能が発揮されたスモーキー・ロビンソンと、配給担当で白人のバーニー・エイルズ。


バーニー・エイルズはレコード業界での経験が買われ、白人優先主義の業界とのパイプ役に必要だった。


そしてもう一人、ウィリアム・ミッキー・スティーヴンソンは、優秀なプレイヤー(後のファンク・ブラザーズ)をモータウンと契約させ、


モータウンのデレクターとしてミュージシャン、プロデューサーたちを監督する重要な役目が与えられた。


スモーキーが手掛けた“ショップ・アラウンド”の成功は、モータウンの発展において重要な曲となったようです。




最も“貢献”したアーティストはマーヴィン・ゲイではないでしょうか・・・


マーヴィンはピアニスト兼ドラマーから始まり、さまざまなプロデューサーと組まされ、次々と女性歌手との相手役もさせられた。


W・スティーヴンソンやその部下クラレンス・ポールのプロデュースではメリー・ウェルズの相手をさせ、


スティーヴンソンの妻キム・ウェストンとの組み合わせではスティーヴンソンが自分の地位を利用していると社内の反感があったという。


それでもマーヴィンは常にチーム・プレイヤーとして全力を尽くしていた。


次のアルバムは新チーム、マーヴィンの師匠ハーヴェイ・フークアとジョニー・ブリストルがプロデュースをし、


アシュフォード&シンプソン作曲“エイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフ”がリリースされた。


相手役には新人のタミー・テレルが選ばれた!


彼女は愛嬌がありセクシーでモータウン内でも人気のシンガーとなり、


他の女性シンガーも彼女の魅力には誰もかなわなかったらしい。


1967年4月に発表されたエイント・ノー・マウンテン・ハイ・エナフはNo.1にこそならなかったが、名曲の仲間入りとなる。


しかしタミーは、その僅か数ヵ月後のステージ上でマーヴィンの腕の中に倒れ込んだのです・・・




V.Simpson & M.Stoller @YouTube